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クリスマス>思い出の曲たち [fuzzyな日記]


このJR東海のCMには魅了され今年は?どんなかななんて、心を引き付けられたと思います。
クリスマスの思い出の曲は、人それぞれ「あの歌だな」「この歌だな」と心の中にありますね。
山下達郎「クリスマス・イブ」?稲垣純一「クリスマスキャロルの頃には」?桑田佳祐「白い恋人たち」?
ワム「ラスト・クリスマス」?マライヤ・キャリー「恋人たちのクリスマス」?どの曲もこの時期になると頭のなかに自然と流れてきます。

「ワム:ホワイトクリスマス」

「桑田佳祐:白い恋人たち」

「山下達郎:ホワイトクリスマス」
どの曲もクリスマスを演出してくれる、素晴らしい曲たち 今宵のイブも・・・・・好いものでありますように。


ヒットナンバーに乗せての「クリスマス・キャロル」1970年作品です。
映画館を出た時に雪がちらつき、積もることは無かったのですが、ホワイトクリスマスになったのです、中学3年の素敵なデートの思い出です。

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「悪党」続編>赤松円心 [fuzzyな日記]

「楠木正成」と共に歴史に名を残す二代悪党の一人「赤松円心」も紹介しないと思い記事にしてみました。
「赤松円心」>赤松則村(円心)播磨の「悪党」である、正成同様物流などで財を成した豪族、村上源氏の流れをひき正成とは姻戚関係である。後醍醐天皇討幕挙兵後、円心も息子則佑が護良親王の近習のため楠木正成と呼応し令旨を受け挙兵する。
赤松軍は京:六波羅探題を攻め、一進一退の戦いを続けるも、足利氏挙兵で京の反幕府勢力は高氏に合力し六波羅を足利氏が陥落させ手柄を足利氏に奪われる。後醍醐天皇の「建武の新政」では円心は護良派の為、守護職を解任される朝廷の処遇に反発、護良親王の悲運もあり、播磨に帰する、その後は京を追われ九州で勢力を盛り返した尊氏と西国連合を組み京に兵を進め、籠城戦と野伏り戦法など悪党の戦いぶりを駆使し朝廷軍に勝利する「白旗城の戦い」で新田軍に大いなる打撃を与え足利勝利に大いなる貢献をする。守護職を約束した尊氏との信頼関係は親密で室町幕府成立に寄与、備前・美作・播磨の守護職を得、室町幕府の四職として幕府の中枢を担う有力守護大名となる。*正成と違い、赤松家勢力拡大のために、倒幕挙兵に至ったと思われるが、護良親王には心から心頭し忠誠心は強かったと思われる。
足利氏に朝廷が破れる要因は単に後醍醐天皇の具に尽きる、勇猛な忠臣新田義貞を源氏の棟梁とし武士の結束を図り朝廷直轄軍を編成しなかった(直轄軍は奥州の北畠氏だけです)、楠木正成を重要なポストに就けず討幕の原動力となった「悪党」たちの求心を図れなかった、赤松円心を評価せず有力な西方の抑えとしなかった、九州に落ちた尊氏を打つべく菊池氏・島津氏に支援を送らなかった、有力武士に十分な恩賞を与えなかったなどの戦略面。そして何よりも、朝廷だけが美味しい処を独占し遊興三昧の生活をし民を顧みない政治面。これでは領土と民を優先する武士団に武家社会が良かったと、朝廷を見限るのは当然の結果です、朝廷には権威は在るものの、もともと武力は無いのです。赤松円心は楠木正成ほど知名度は高くは無いが、大した悪党である。
円心を題材にした小説、北方謙三氏の「悪党の裔」が面白い、お奨めの一冊です。
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余談だが、剣豪宮本武蔵が赤松氏の末葉であるとの説がある(著書「五輪書」に記述、面白い話です)武蔵の出身地が赤松村説(兵庫県:播磨)と宮本村説(岡山県:美作)があり、美作には全国でも珍しい「宮本武蔵駅」(智頭急行智頭線)があり、近郊の武蔵生誕伝承地には観光施設「武蔵の里」があります。
34170133417014宮本武蔵駅
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徳川家二人の「黒衣の宰相」>「金地院崇伝」と「南光坊天海」 [fuzzyな日記]

図書館で歴史小説を物色していると興味深い、二人の「黒衣の宰相」に出会ったのです。二人の僧の名は「金地院崇伝」と「南光坊天海」、私は「黒衣の宰相」=「金地院崇伝」と思っていましたが・・
徳川家康に仕え徳川幕府成立・幕政に貢「黒衣の宰相」献した二人の僧、彼らは墨染の衣をまとい深く幕政に関与したため「黒衣の宰相」と呼ばれています。
3405239金地院崇伝3405240南光坊天海
「金地院崇伝」は、武家一色氏一門に生まれ僧門に入れられ、知力を駆使し臨済宗「南禅寺」住職となり京都五山に君臨した禅僧である。家康の招きで外交僧として幕政に参加、手腕を発揮し朝廷や公家の権限を抑える「禁中並公家諸法度」武士の法律「武家諸法度」の制定に関与する他、キリスト教の禁止や寺院の統制にも大きな力をみせている。智謀の限りを尽くし家康に使え、大坂の役のきっかけとなる「方広寺鐘銘」の「国家安康、君臣豊楽」の銘に難癖をつけた事件が有名です。その後家康の死去に際し、もう一人の「黒衣の宰相:南光坊天海」と家康の神号を巡る論争で崇伝の「明神」が天海の「権現」に破れ(*崇伝推奨の明神は豊臣秀吉が豊国大明神の神号を賜り後豊臣滅亡を展開は不吉と主張する)幕政から退くも京都五山十刹には依然として君臨した怪僧である。あまりの豪腕ぶりに「悪国師」とか沢庵和尚(漬物たくわんの祖)から「天魔外道」と謂われた。
彼を主人公にした小説は「天地人」の著者、火坂雅志氏「黒衣の宰相」があります。*読むと「金地院崇伝」を好きにはならないでしょう。

「南光坊天海」は、三浦氏一族芦名氏の出とされているが、出目は不明とされている。天台宗延暦寺に学び各地を渡り歩き川越:無量寿寺(現喜多院)住職となり再興す、その後家康に招かれ朝廷との交渉を担う。織田信長に焼き討ちされた延暦寺再興するなど功績を残すも、崇伝同様「方広寺鐘銘事件」にも関与するなど幕府成立、幕政に参加し手腕を発揮し徳川三代に仕え、先の家康神号で主導権を握り、家康を「日光大権現」として日光東照宮に祀る。また上野寛永寺も建立している。天海は108歳で亡くなり死後「慈眼大師」号を賜る。
前半生がはっきりしない天海は、歴史のミステリーで明智光秀説が囁かれている。
・光秀の位牌と木造が収められている慈眼寺と慈眼大師が通じる
・家康の祀られる日光に明智平がある
・日光東照宮には明智氏の家紋の桔梗は多数見られる、陽明門の武者像は桔梗紋
・光秀が討ち取られたとされる時期より後に延暦寺に石灯篭が光秀の名で寄進されている
・光秀の腹心斉藤利三の娘お福(春日の局)が家光の乳母である
・天海が住職の川越喜多院で春日の局が過ごしている(初対面なのに「おひさしぶりです」と挨拶したとか)
・秀忠の秀、家光の光 家康の次将軍に光秀の文字を戴いている
反証もかなり出ているので、あくまでも歴史ミステリーの域での話でありますね。(そうだと信じたい私です)
春日の局に関してもの家光生母説があるし、本能寺の変は徳川黒幕説(秀吉説など色々ありますね)
いずれにしろ、きな臭い話だが想い巡らせると実に楽しいです。*私は徳川黒幕説支持です。
3405279火坂氏著3405280中村氏著
しかし何故同時期に二人の「黒衣の宰相」なのでしょう、違う呼び名が在ってしかるべしと思う私です。
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映画「墨攻」>中国戦国時代 [fuzzyな日記]

3398473小説:酒見賢一著3398474森秀樹画
WOWOWが正月に「レッド・クリフ」パートⅠ(2日20:00)パートⅡ(3日20:00)を連夜放映する、それに先立ち以前観た「墨攻」をまた観てみました。レッドクリフのような派手さは無いが見応え充分な実に面白く、スケール溢れる戦闘シーン、様々な人と人との交わりと心情、儚い愛をよく表現しています、お奨めの映画です。
「墨攻」は中国戦国時代の話で大国「趙」が小国「梁」を侵略、「梁」を助けに戦闘に加わった「墨家:革離」を主人公に書かれた酒見賢一氏の歴史小説&森秀樹氏の歴史漫画を映画化したもので、2006年制作2007日本公開の日中韓共同制作の作品で主演は「アンディ・ラウ」ジャッキー・チェンと並ぶ香港映画のスターです。
彼の出演作は、ジャッキー・チェン「酔拳」や「小林サッカー」金城武・チャンツィー「LOVERS」レッドクリフに霞んでしまった「三国志」などがあり、人気高い実力派の俳優です。
「墨家」とは、「儒学」と袂を分かつ思想家集団で「墨子」が広めた思想で、博愛主義(兼愛:誰でも平等の精神)非戦主義(戦いを否定)を唱える思想家であり、小国の武装防御を請け負う集団でもあります、戦闘傭兵とは異なり土木や城塞の改修など相手の攻撃に耐える防衛作戦の請負人です。(中国の小国=要塞都市)戦国時代に活躍した「墨家」も秦が中国を統一すると、その存在は消えてしまいました。
「墨攻」とにかくお奨めします、「アンディ・ラウ」良いですよ。


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後醍醐天皇の戦う二人の皇子>護良親王&懐良親王 [fuzzyな日記]

後醍醐天皇の皇子、護良親王と懐良親王は南朝の戦う皇子である。
護良親王は後醍醐第一皇子として産れ、梶井門跡三千院にて仏門に帰依し大塔宮と名乗り天台宗座主となるも、武芸を好み鎌倉幕府討幕を画策し挙兵する、所謂「元弘の変」親王令旨を発し楠木正成や赤松円心らと幕府軍と戦い、十津川・吉野・高野山と転戦する。足利・新田氏参戦により鎌倉幕府討幕後は後醍醐天皇の「建武の新政」にて征夷大将軍となるも、足利尊氏と反目しさらに後醍醐寵愛の阿野廉子の諫言により天皇と不仲になり征夷大将軍を解任された上、皇位簒奪の嫌疑を掛けられ鎌倉:足利直義に預けられ東光寺土牢に幽閉される。その際北条時行の「中先代の乱」が起こり鎌倉を急襲され、親王が足利氏の驚異となる存在であり北条氏に奪われることを懸念する直義の指示で斬首されてしまう悲劇を迎える。
現在も「鎌倉宮」(東光寺跡)に幽閉されていた土牢が現存しています、墓所は鎌倉二階堂理智光寺跡にあり、位牌は北鎌倉東慶寺に祀られています。*墓所は妙法寺裏山にも存在しています(非公式扱い)
数々の小説に重要人物として登場しますが、大塔宮護良親王を主人公とした小説は出ていません。
3390414出陣画3390415宮土牢3390416御首塚3390493親王墓所
もう一人の懐良親王は後醍醐第十六皇子で「建武の新政」で九州統治のため征西大将軍として九州に派遣され肥後国に征西府を開き、征西将軍宮と呼ばれる。薩摩:島津氏と対峙するも肥後の豪族:菊池武光と阿蘇惟直の合力を得、少弐頼尚も味方とし針摺原の戦い・筑後川の戦いで足利直冬や幕府軍一色氏・仁木氏を退けほぼ九州制圧をし南朝の全盛を支えるも、二代将軍義詮は九州探題として斯波氏・渋川氏、三代将軍義満は細川頼之・今川了俊を派遣し、征西府・直冬軍・幕府軍の三つ巴の覇権抗争となる、その後幕府軍が勢力を盛り返し征西府・直冬軍を抑え九州を従える。小説では北方謙三氏「武王の門」がある。
征西府は明国と密接な関係を作り対明貿易を一手に収め南朝の財源を担っていました、また明国太祖は懐良親王を「日本国王良懐」とし国王と認め、幕府は明の軍事介入を恐れていたこともあり征西府討伐を画策していました。懐良親王は将軍義満により制圧され征西将軍を退任、肥後八代で病没したとされています。
墓所は熊本八代に八代宮として祀られています。墓所は何ヶ所か在るとされていますが宮内庁は八代宮を墓所としています。
3390694墓所sin7.jpgsin8.jpg北方謙三氏著
吉川英治氏の「太平記」は最も親しまれた著書でが、この時代を書かせたら北方謙三氏が第一人者であろうと思います。
婆娑羅大名:佐々木道誉「道誉なり」、播磨の悪党:赤松円心「悪党の裔」、陸奥守:北畠顕家「破軍の星」倭寇松浦党「波王の秋」などがある、いずれもスポットを充て難い主人公であり、歴史の主役ではないのが面白い。
CS時代劇専門チャンネルで大河ドラマ「太平記」がスタートしました、NHKもオンデマンドなどでなくBS放送で
過去の人気の有った大河ドラマや人形劇を放映すればと思います(BSは誰も見ないつまらない番組が多すぎ)
人形劇「三国志」「里見八犬伝」など子供に見せたいですね。
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婆娑羅大名>佐々木道誉 [fuzzyな日記]

do.jpg 佐々木道誉do1.jpg北方謙三著「道誉なり」
「戦国BASARA」人気がすごいですね、「BASARA」の語源となったには、室町幕府の世に「婆娑羅大名」なる人種が存在していました、そもそも「バサラ」とはサンスクリット語で無遠慮・乱暴・派手などの意味をもつ言葉です。朝廷や幕府に媚びず、無軌道な行動・発言や、連歌・闘茶・立花・聞香(茶道・華道・香道)に秀で華美な衣装を纏う型破りな大名たち、彼らを「婆娑羅大名」と呼ぶ。*大名に限られた呼び名で「傾奇者」とは一線画す。
代表格は守護職「佐々木道誉」、室町幕府執事「高師直」、守護職「土岐頼遠」が有名ですが、やはり突出した存在は「佐々木道誉」ですね。佐々木京極家に産まれ高氏が本名ですが、出家後の道誉が一般的な呼び名になっています。鎌倉幕府の北条高時の相供衆として幕府に仕え、高時出家の際に共に出家しました、足利高氏が倒幕に旗揚げすると高氏に従事し足利幕府の中枢を担う守護職を務めます。古い権力を否定するような行動、非道な振る舞いと文化人の二面を併せ持ち、正に「婆娑羅」の生涯でした。戦に於いては足利軍から新田軍に寝返ったかと思うと又新田軍から足利軍に寝返り足利軍の勝利に貢献する機敏な兵法を駆使、幕府に属しながら南朝とも誼を通じ、幕府と南朝の橋渡しをしたり、南朝の中心的存在の楠木正儀を裏切させたりの当代一の寝業師でもあり南朝崩壊の一翼を担い、南北合一・一天一帝の立役者でもあります。
悪行は門跡寺院妙法院の焼き討ちは有名*妙法院の紅葉の枝を家来が折り怒った妙法院に対し逆上、焼き討ちの非道を働く、処罰で上総国に流罪になる道中も女を侍らし遊興三昧のとんでもない人物であった。
「婆娑羅大名」佐々木道誉は、色々な作家にて小説等になっています、魅力あるキャラでもあります。
「高師直」は室町幕府成立に多大な功績を収め幕府執事職として絶大な権力を誇る、武者としては北畠顕家や楠木正行を破り、尊氏と対立した弟直義一派を一掃する豪腕ぶり。天皇家権威を蔑ろにし「王だの院が必要ならば、木彫りや金の像で作り、生きているそれは流してしまえ」など発言したことは有名です。
「土岐頼遠」は勇猛な武士で菊池・北畠・新田氏との戦いで武名を上げ美濃守護職となる、光厳院上皇の行幸に遭遇した際、下馬せず牛車を蹴倒しさらに矢を射掛ける狼藉のうえ上皇を犬呼ばわりした無法を働く、後に処刑された「婆娑羅大名」 ようは驕り高ぶり、権威を蔑ろにした大名たちである。
「悪党」「婆娑羅大名」と室町時代は面白いです、ややハマリぎみになりました。
戦国時代「織田信長」「松永久秀」に同じ姿が見られ、すくなからず影響を与えたと考えられます。
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歴史を彩った女武者たち [fuzzyな日記]

「女甲冑録」東郷隆氏 図書館で何気なく手にし読んで観た。女だてらに甲冑を身に纏い並みいる武者を恐れさせた女武者たちの短編集の小説である。戦の時代に女性が戦闘に加わるのはよくあることで、戦ぶりもかなりのものでした、その姿に儚さも、そして悲しい末路に皆涙し後世に伝え残る女武者たち。この物語の主人公の六人の女武者たちを紹介します。
女武者の代表格と謂えば、「巴御前」が真っ先に名前が挙がるでしょう、木曾義仲の愛妾「巴」は勇猛な坂東武者たちを相手に組み打ちに比類の強さをみせ、鬼女と恐れさせた女傑である。華美な甲冑、駿馬に打ち跨る姿は美丈夫そのものでした。義仲討たれた後は、信州に逃れ菩提を弔い90歳まで生きたとも、鎌倉に召され勇猛な女傑ぶりに、鎌倉の有力武将和田義盛が頼朝に願い、妻に迎えたとも云われているが定かではない。
常山御前(鶴姫)>備中守護三村元親の妹御、常山城主上野隆徳の正室である。小早川・宇喜多勢相手の籠城戦に備前長船の槍をもって敵将を討ちとる存分な働きをみせるも、刀を口にくわえて打ち臥す壮絶な最期を遂げた女武者。
田鶴姫>今川氏譜代の引馬(浜松)城主飯尾連竜の妻、今川義元が桶狭間に於いて織田信長に敗れた後、徳川勢に攻め寄られる引馬城、落城間際に夫連竜の鎧直垂をまとい顔には朱塗りの面頬を付け、得意の強弓を放ち立ち向かうも、壮絶な討ち死にを遂げる。寄せては首を取ろうとするが、女武者であったゆえ首を取らぬが作法とねんごろに弔われた。
甲斐姫>武蔵忍城主成田氏長の娘御、小田原北条氏の重鎮である成田氏の守る忍城に石田三成率いる豊富軍が大軍をもって押し寄せ得意の水攻めを仕掛ける、甲斐姫自ら甲冑をまとい家臣一同を鼓舞し石田勢と果敢に戦うも、降伏開城となる。成田氏は蒲生氏郷に御預けとなるが、秀吉が甲斐姫に興味を抱き寵愛され大名に服せられる。戦いでは、三成・長束正家に煮え湯を飲まし、戦後は成田氏の復権を果たす大働きの女武者。
ゆきの方>伊勢安濃津城主富田信高の正室、関ヶ原開戦直前、東軍に属した富田氏は西軍に攻められての籠城戦を強いられる、信高奮闘 ゆきの方も病弱ながら甲冑まとい得意の槍を振るい良く戦うも落城降伏する。ゆきの方は後日関ヶ原の頃伊勢で儚く世を去る。彼女の奮戦ぶりは語り草として伝わる。
鶴姫>室町末期、伊予河野一族三島氏の娘御、大山祇神社の巫女武士として周防大内氏と戦い、御龍神女と恐れられた女武者。女警護衆と共に獅子奮迅の戦いをするも、大三島水軍が大内水軍に敗れ大将三島安成が戦死、許婚の死を知り入水し世を去る。大山祇神社威勢服する頃には大三島を攻めた大内氏・陶氏・白井氏は後毛利氏に滅ぼされ跡形もなく、鶴姫の御神慮と謂われる。
壮絶な討ち死にや儚く世を去る女武者たち、その姿に打たれ後世まで読む者を魅了します。昔の女性は弱い者のように感じますが、実は現代と変わらず強いのです、いつの世も「男勝り」は存在したのですね、また偶然なのか三人「鶴姫」が登場します、鶴は大きく美しい鳥です、その姿から容姿に恵まれ、美丈夫な女子に「鶴姫」と名付けたと謂われるようです。
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鎌倉時代の「悪党」たち [fuzzyな日記]

鎌倉時代後期、幕府は北条得宗家が執権、朝廷は権威が失われていた時代に荘園領主と領地や年貢などで対立し、反体制(幕府や朝廷の臣に属さない)の土豪・海賊などを総称し「悪党」と呼ばれる者達が存在していました。
有名どころでは、河内の楠木一党、播磨の赤松一党、伯耆の名和一党たちである。他にも畿内中心に伊賀・摂津などにもその「悪党」が点在し、時の幕府機関:六波羅探題との抗戦、小競り合いを続ける現状でした。
鎌倉幕府を脅かした「悪党」、最後は源氏に美味しい処をさらわれた「悪党」代表格の「楠木正成」紹介します。
楠木正成>河内にて商いや物流で財を成し、武士団を形成した武将。後醍醐天皇との繋がりから倒幕に立ち上がり、後醍醐天皇の皇子:大塔宮護良親王と信頼関係を築き共闘、有名な「赤坂・千早城の戦い」その戦いぶりは籠城戦とゲリラ戦を駆使したもので「悪党」の戦い方そのもの、僅か2千足らずの兵で十数万とも云われた幕府軍を翻弄し、倒幕の旗を各地に起こすきっかけを作るも足利・新田氏の倒幕参戦で役目を終えることになる、官位を授かり朝廷軍の一役を担うも、徐々に朝廷と距離を置く状態のなか、父である天皇より護良親王が謀反の嫌疑をかけられ足利氏に捕えられやがては命を絶たれることで朝廷と決別する。天皇の施く「建武の新政」も酷い悪政であり、遂に足利尊氏(高氏)が立ち上がると、天皇は新田義貞を大将に足利討伐に動き、楠木正成も参加(よせば良いのにと思うが、真の朝廷を中心とした政をめざす)、陸奥の北畠氏の参戦で、足利氏を西国に駆逐する。その後九州で勢力を盛り返した足利氏は、朝廷軍を破り室町幕府を打ち立てる。正成は弟正季と「湊川の戦い」で足利軍に敗れ自刃、最後を遂げる、尊氏も正成の死を悼み・惜しみ首級を遺族に還した経緯がある。後の世に「楠木正成」は忠臣の鏡と讃えられ、明治時代には「大楠公」を贈られ忠臣として教育の場にも讃えられ登場ている。
*「悪党」が朝廷軍の柱となり、天皇親政で世を治めることが彼の目的であったが、不甲斐ない朝廷に振り回され、奉信していた護良親王を亡くしたことが、彼の生涯を空しいものにしてしまった=死を望むに至り、足利氏と戦いに散っていったのでしょう。もし、後醍醐天皇が善政を施いていればと悔やまれます。
3363888皇居外苑前に在る「楠木正成像」3363889楠木氏家紋「菊水」 3363926北方謙三著
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キグレサーカス川越公演 [fuzzyな日記]

勤労感謝の日すなわち今日、川越で開催されている「キグレサーカス」に妻と孫二人を連れ行ってきました。
サーカスは齢を重ねた私ですら3回目位(記憶が無いのかも)孫は2回目(記憶が完全に無い)、天気は快晴で圏央道を利用し川島ICへ、案内ではIC南特設会場と有るがサーカステントが見当たらない、何処?チケットの住所をカーナビで設定、大ウソの場所である、暫し車を走らせるとアドバールーンが遠くに見える、やっと到着も駐車場まで渋滞、妻たちは徒歩で会場に迎いました、空いているだろと見くびっていたが大間違い盛況である。
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まずは、サーカスの人気者ピエロたちのお出迎えから始まり、最後まで楽しませてもらいました。孫達は興味を引く物とそうでない物で食い付きが違い、楽しいのか?そうでないのか?解らない状態でした。意外と大人たちのほうが楽しんでいるのかも。キグレサーカスは昔ながらの雰囲気を残し、圧倒されるものは無いが温かさを感じるサーカスと感じた私です。
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「後」が付く天皇たち [fuzzyな日記]

3355550後白河3355551後鳥羽3355552後醍醐
先日、今上天皇即位20周年の祝賀が催され、ふと歴代天皇を頭に思い浮かべたら何人も浮かんでこないのです、確か125代天皇である、昔、歴代天皇を丸暗記しようとしたが、初代神武天皇から20代位しか浮かばない
他の天皇は?あれ20人位であるしかも何をしたか定かなのは数少ない悲しいが、朝廷内の権力闘争や朝廷が絡む大きな戦があった時の天皇位である。
列記してみた>神武(初代)応神・仁徳(古墳)継体(今の天皇家の祖とも云われている)推古(初めての女性天皇)天智(中大兄皇子・大化の改新)弘文(大友皇子・壬申の乱)天武(大海人皇子・壬申の乱)桓武(平家の祖・奥州蝦夷と戦う)清和(源氏の祖)白河(法王として院政権勢誇る)鳥羽(上皇として崇徳天皇との権力闘争)崇徳(鳥羽上皇と争う)後白河(崇徳上皇・二条天皇との権力闘争、保元平治の乱)安徳(平家滅亡と共に壇ノ浦に)後鳥羽(承久の乱)後醍醐(建武の新政)孝明(公武合体)明治→大正→昭和→今上 以上です。
自分の無知に暫しがっかりです。ふと気が付くと、大きな政変や乱に係わる天皇に「後」が付くのが目立つ、三人の天皇・・「後白河」「後鳥羽」「後醍醐」の三天皇、いずれも歴史上では強い権力欲を持ち、天下に朝廷の命で打倒武士・幕府を志し、王政を布かんが為に戦を招いた天皇の代表格である。しかし、奇遇ともいえる「後」の天皇、調べると「後」の付く天皇は26人しかいないのです。(正統の天皇)
「後白河」>上皇・法王として君臨するも、二条天皇との権力闘争で平清盛・源義朝と手を結び保元・平治の乱を引き起こす、戦いに勝利するも武家の台頭を許し、平家の隆盛により朝廷の権威を落とす。その後、平家打倒を画策し源頼朝率いる源氏と平家の戦い治承・寿永の乱にて平家滅亡させるも、鎌倉幕府開府により又しても武家政治を確立させてしまう結果を許す。文化人として評価されるも政治面では然したる能力は無く、王政復活の権力欲が先立つ人物であった。後の二人とは違い、権力は依然保持し、延暦寺など僧門には君臨していた。
「後鳥羽」>鎌倉幕府が源氏から北条氏に実権が移り、執権北条義時の時幕府倒幕を画策し、承久の乱を引き起こすも破れ、鎌倉幕府体制を盤石にさせてしまう。やはり歌人としての評価は非常に高いが、後白河同様、手腕・能力に才覚なくいたずらに権力欲高い人物と謂える。
「後醍醐」>北条・鎌倉幕府体制に綻び・不満が高まる時に、王政復古を画策し天下に倒幕を呼びかけ正中の変・元弘の乱を引き起こす。大塔宮:護良親王を中心に楠木正成・赤松円心など悪党(武家でない豪族)及び、足利高氏・新田義貞の源氏勢力を集い鎌倉幕府滅亡を果たし建武の新政で王政復古なるも、能力・人望無く、足利高氏(尊氏)に室町幕府開府を許し、王政復古ならず完全に朝廷の地位を落としめた人物。権謀を巡らし寵愛した阿野廉子(悪女で紹介)と高氏と手を組み、朝廷を担う護良親王を足利氏に引き渡し死に至らしめる愚行を犯すなど展望も人望も無い人物。
三天皇の共通項は、権力に異常な執念をみせ、世を乱す戦を引き起こした人物で武家政治を引き起こし、また盤石なものにさせてしまい、朝廷の権威を落としめた人物である。公家朝廷に王政復古を画策するのは、天皇家としては当然の行為であるのは理解できるも、民の暮らしを度外視しこの世の春を謳歌し怠惰な政治を行ってきた朝廷が民の支持を望んでも無理な話だし、地に根ざした武士の不満を解消できるほどの人望もない。
平清盛・源頼朝・北条高時・足利高氏に比べれば、やはり能力・手腕・人望など劣るので復権はあり得ません。
後鳥羽・後醍醐は幕府により、隠岐の島に配流になっています、この頃は公家・朝廷の力が完全に地に落ちていた象徴的な出来事といえ、まあ自業自得と謂えますね。これから他の「後」のつく天皇なども勉強してみます。
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