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「後」が付く天皇たち [fuzzyな日記]

3355550後白河3355551後鳥羽3355552後醍醐
先日、今上天皇即位20周年の祝賀が催され、ふと歴代天皇を頭に思い浮かべたら何人も浮かんでこないのです、確か125代天皇である、昔、歴代天皇を丸暗記しようとしたが、初代神武天皇から20代位しか浮かばない
他の天皇は?あれ20人位であるしかも何をしたか定かなのは数少ない悲しいが、朝廷内の権力闘争や朝廷が絡む大きな戦があった時の天皇位である。
列記してみた>神武(初代)応神・仁徳(古墳)継体(今の天皇家の祖とも云われている)推古(初めての女性天皇)天智(中大兄皇子・大化の改新)弘文(大友皇子・壬申の乱)天武(大海人皇子・壬申の乱)桓武(平家の祖・奥州蝦夷と戦う)清和(源氏の祖)白河(法王として院政権勢誇る)鳥羽(上皇として崇徳天皇との権力闘争)崇徳(鳥羽上皇と争う)後白河(崇徳上皇・二条天皇との権力闘争、保元平治の乱)安徳(平家滅亡と共に壇ノ浦に)後鳥羽(承久の乱)後醍醐(建武の新政)孝明(公武合体)明治→大正→昭和→今上 以上です。
自分の無知に暫しがっかりです。ふと気が付くと、大きな政変や乱に係わる天皇に「後」が付くのが目立つ、三人の天皇・・「後白河」「後鳥羽」「後醍醐」の三天皇、いずれも歴史上では強い権力欲を持ち、天下に朝廷の命で打倒武士・幕府を志し、王政を布かんが為に戦を招いた天皇の代表格である。しかし、奇遇ともいえる「後」の天皇、調べると「後」の付く天皇は26人しかいないのです。(正統の天皇)
「後白河」>上皇・法王として君臨するも、二条天皇との権力闘争で平清盛・源義朝と手を結び保元・平治の乱を引き起こす、戦いに勝利するも武家の台頭を許し、平家の隆盛により朝廷の権威を落とす。その後、平家打倒を画策し源頼朝率いる源氏と平家の戦い治承・寿永の乱にて平家滅亡させるも、鎌倉幕府開府により又しても武家政治を確立させてしまう結果を許す。文化人として評価されるも政治面では然したる能力は無く、王政復活の権力欲が先立つ人物であった。後の二人とは違い、権力は依然保持し、延暦寺など僧門には君臨していた。
「後鳥羽」>鎌倉幕府が源氏から北条氏に実権が移り、執権北条義時の時幕府倒幕を画策し、承久の乱を引き起こすも破れ、鎌倉幕府体制を盤石にさせてしまう。やはり歌人としての評価は非常に高いが、後白河同様、手腕・能力に才覚なくいたずらに権力欲高い人物と謂える。
「後醍醐」>北条・鎌倉幕府体制に綻び・不満が高まる時に、王政復古を画策し天下に倒幕を呼びかけ正中の変・元弘の乱を引き起こす。大塔宮:護良親王を中心に楠木正成・赤松円心など悪党(武家でない豪族)及び、足利高氏・新田義貞の源氏勢力を集い鎌倉幕府滅亡を果たし建武の新政で王政復古なるも、能力・人望無く、足利高氏(尊氏)に室町幕府開府を許し、王政復古ならず完全に朝廷の地位を落としめた人物。権謀を巡らし寵愛した阿野廉子(悪女で紹介)と高氏と手を組み、朝廷を担う護良親王を足利氏に引き渡し死に至らしめる愚行を犯すなど展望も人望も無い人物。
三天皇の共通項は、権力に異常な執念をみせ、世を乱す戦を引き起こした人物で武家政治を引き起こし、また盤石なものにさせてしまい、朝廷の権威を落としめた人物である。公家朝廷に王政復古を画策するのは、天皇家としては当然の行為であるのは理解できるも、民の暮らしを度外視しこの世の春を謳歌し怠惰な政治を行ってきた朝廷が民の支持を望んでも無理な話だし、地に根ざした武士の不満を解消できるほどの人望もない。
平清盛・源頼朝・北条高時・足利高氏に比べれば、やはり能力・手腕・人望など劣るので復権はあり得ません。
後鳥羽・後醍醐は幕府により、隠岐の島に配流になっています、この頃は公家・朝廷の力が完全に地に落ちていた象徴的な出来事といえ、まあ自業自得と謂えますね。これから他の「後」のつく天皇なども勉強してみます。
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hamagen

天皇の名前を覚えるのは大変ですね。たくさんいるのに、同じような名前があったりしてこんがらがります。「後」の付く天皇については面白そうですね。たしかに、権力欲が強かったように思えます。
by hamagen (2009-11-21 18:03) 

ノリパ

行使力の伴わない権力はないんですね。武力がバックにあるから、
権力が伴ったんでしょうかね。全然知らないことで勉強になりました。
by ノリパ (2009-11-21 18:24) 

アテンザ23Z

世の趨勢が公家政権から武家政権に移ろうとしている時に、時代に抗った天皇ですね。後醍醐天皇など、もう少し現実的な政治感覚を持ち合わせていたら、結構足利尊氏とウマが合うので、協調的な公武政権ができていたかも知れません。
by アテンザ23Z (2009-11-21 19:36) 

fuzzy

hamagenさん、似たような名前がずらり並んでいます、天皇絡みで余程歴史的に重要な出来事が無い限り、記憶には残らないですね、「後」は丁度朝廷と武家の権力の綱引きをした天皇が揃いました。
by fuzzy (2009-11-21 21:04) 

fuzzy

ノリパさん、武家が朝廷を護るとされていた時代から、武家が戦闘能力で土地を支配する時代の変化したのを、認めたくなかったのでしょう、恩賞を与えられなければ朝廷の威光だけでは武家は跪かないのです。官位などの名誉は身にならないのが現実であったのでしょう。
by fuzzy (2009-11-21 21:11) 

fuzzy

アテンザ23Zさん、足利高氏は天皇新政を認めていたようですが、あまりにも政治能力が欠けていたため国を任せられないと判断し幕府を起こしたようです、大塔宮護良親王を捨てた後醍醐は人間的にも信に足りないと思ったのでしょう
by fuzzy (2009-11-21 21:15) 

やまがたん

今の天皇家は確か南朝の流れを組むんですよね
でも正統は北朝とも聞いたことがありますし
南朝は滅びたとも聞いたことがありますし
歴史とはかくも不可解なところがあるんですよね^^
( ゚∀゚)o彡°☆オウエン!ガンバレ☆
by やまがたん (2009-11-22 09:20) 

fuzzy

やまがたんさん、今の天皇家は北朝です、南朝が正統と謂われたこともありますが、事実上南朝は消滅しています。確かに難解ですね、天皇家が分裂する事態、異常な時代だったのでしょう。(皇位継承も今とは違い、兄弟/大兄優先の時代もあり、いたって曖昧なものでした、現在は継承順位は定められています直系男子優先です)
by fuzzy (2009-11-22 10:52) 

kohtyan

後のつく天皇は、26人もいるのですか、
10人ぐらいは、知っていましたが・・・
by kohtyan (2009-11-22 12:59) 

fuzzy

kohtyanさん、南北朝合わせると28人います、なぜ先帝達の名に「後」を付けているのかは解りません。調べてみます。
by fuzzy (2009-11-22 14:14) 

袋田の住職

東国の源氏といずれも関わりあいが深いですね。
後鳥羽帝はやはり、鳥羽帝を尊敬していたのでしょうか?
by 袋田の住職 (2009-11-23 19:38) 

fuzzy

袋田の住職さん、東国の源氏は帝や朝廷から東夷と蔑まれてきた歴史があります、武力だけで無能な武士と考え扱い易いと考え利用しよとしたのでしょう、頼朝と高氏は別物で強烈なしっぺ返しを食いましたね。
「後」の天皇は「のちの天皇」と解釈し、皇所の場所や産れた場所・院政を行った寺院に由来しているのが多いと思いますが、死後に贈られた諡(おくりな)は前記だと思います、自らつけた天皇の場合は先帝に倣い肖る(尊敬など)と考えるしかないですね、しかし難解です。
by fuzzy (2009-11-23 20:19) 

NO NAME

神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。隠岐から逃げてきた後醍醐天皇を楠木正成が迎えに来たところです。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。境内には
塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺さ
れましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりまし
た。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在
は福厳寺に合併されています。

by NO NAME (2010-05-26 05:34) 

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