SSブログ

徳川家二人の「黒衣の宰相」>「金地院崇伝」と「南光坊天海」 [fuzzyな日記]

図書館で歴史小説を物色していると興味深い、二人の「黒衣の宰相」に出会ったのです。二人の僧の名は「金地院崇伝」と「南光坊天海」、私は「黒衣の宰相」=「金地院崇伝」と思っていましたが・・
徳川家康に仕え徳川幕府成立・幕政に貢「黒衣の宰相」献した二人の僧、彼らは墨染の衣をまとい深く幕政に関与したため「黒衣の宰相」と呼ばれています。
3405239金地院崇伝3405240南光坊天海
「金地院崇伝」は、武家一色氏一門に生まれ僧門に入れられ、知力を駆使し臨済宗「南禅寺」住職となり京都五山に君臨した禅僧である。家康の招きで外交僧として幕政に参加、手腕を発揮し朝廷や公家の権限を抑える「禁中並公家諸法度」武士の法律「武家諸法度」の制定に関与する他、キリスト教の禁止や寺院の統制にも大きな力をみせている。智謀の限りを尽くし家康に使え、大坂の役のきっかけとなる「方広寺鐘銘」の「国家安康、君臣豊楽」の銘に難癖をつけた事件が有名です。その後家康の死去に際し、もう一人の「黒衣の宰相:南光坊天海」と家康の神号を巡る論争で崇伝の「明神」が天海の「権現」に破れ(*崇伝推奨の明神は豊臣秀吉が豊国大明神の神号を賜り後豊臣滅亡を展開は不吉と主張する)幕政から退くも京都五山十刹には依然として君臨した怪僧である。あまりの豪腕ぶりに「悪国師」とか沢庵和尚(漬物たくわんの祖)から「天魔外道」と謂われた。
彼を主人公にした小説は「天地人」の著者、火坂雅志氏「黒衣の宰相」があります。*読むと「金地院崇伝」を好きにはならないでしょう。

「南光坊天海」は、三浦氏一族芦名氏の出とされているが、出目は不明とされている。天台宗延暦寺に学び各地を渡り歩き川越:無量寿寺(現喜多院)住職となり再興す、その後家康に招かれ朝廷との交渉を担う。織田信長に焼き討ちされた延暦寺再興するなど功績を残すも、崇伝同様「方広寺鐘銘事件」にも関与するなど幕府成立、幕政に参加し手腕を発揮し徳川三代に仕え、先の家康神号で主導権を握り、家康を「日光大権現」として日光東照宮に祀る。また上野寛永寺も建立している。天海は108歳で亡くなり死後「慈眼大師」号を賜る。
前半生がはっきりしない天海は、歴史のミステリーで明智光秀説が囁かれている。
・光秀の位牌と木造が収められている慈眼寺と慈眼大師が通じる
・家康の祀られる日光に明智平がある
・日光東照宮には明智氏の家紋の桔梗は多数見られる、陽明門の武者像は桔梗紋
・光秀が討ち取られたとされる時期より後に延暦寺に石灯篭が光秀の名で寄進されている
・光秀の腹心斉藤利三の娘お福(春日の局)が家光の乳母である
・天海が住職の川越喜多院で春日の局が過ごしている(初対面なのに「おひさしぶりです」と挨拶したとか)
・秀忠の秀、家光の光 家康の次将軍に光秀の文字を戴いている
反証もかなり出ているので、あくまでも歴史ミステリーの域での話でありますね。(そうだと信じたい私です)
春日の局に関してもの家光生母説があるし、本能寺の変は徳川黒幕説(秀吉説など色々ありますね)
いずれにしろ、きな臭い話だが想い巡らせると実に楽しいです。*私は徳川黒幕説支持です。
3405279火坂氏著3405280中村氏著
しかし何故同時期に二人の「黒衣の宰相」なのでしょう、違う呼び名が在ってしかるべしと思う私です。
nice!(28)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:グルメ・料理

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。