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後醍醐天皇の戦う二人の皇子>護良親王&懐良親王 [fuzzyな日記]

後醍醐天皇の皇子、護良親王と懐良親王は南朝の戦う皇子である。
護良親王は後醍醐第一皇子として産れ、梶井門跡三千院にて仏門に帰依し大塔宮と名乗り天台宗座主となるも、武芸を好み鎌倉幕府討幕を画策し挙兵する、所謂「元弘の変」親王令旨を発し楠木正成や赤松円心らと幕府軍と戦い、十津川・吉野・高野山と転戦する。足利・新田氏参戦により鎌倉幕府討幕後は後醍醐天皇の「建武の新政」にて征夷大将軍となるも、足利尊氏と反目しさらに後醍醐寵愛の阿野廉子の諫言により天皇と不仲になり征夷大将軍を解任された上、皇位簒奪の嫌疑を掛けられ鎌倉:足利直義に預けられ東光寺土牢に幽閉される。その際北条時行の「中先代の乱」が起こり鎌倉を急襲され、親王が足利氏の驚異となる存在であり北条氏に奪われることを懸念する直義の指示で斬首されてしまう悲劇を迎える。
現在も「鎌倉宮」(東光寺跡)に幽閉されていた土牢が現存しています、墓所は鎌倉二階堂理智光寺跡にあり、位牌は北鎌倉東慶寺に祀られています。*墓所は妙法寺裏山にも存在しています(非公式扱い)
数々の小説に重要人物として登場しますが、大塔宮護良親王を主人公とした小説は出ていません。
3390414出陣画3390415宮土牢3390416御首塚3390493親王墓所
もう一人の懐良親王は後醍醐第十六皇子で「建武の新政」で九州統治のため征西大将軍として九州に派遣され肥後国に征西府を開き、征西将軍宮と呼ばれる。薩摩:島津氏と対峙するも肥後の豪族:菊池武光と阿蘇惟直の合力を得、少弐頼尚も味方とし針摺原の戦い・筑後川の戦いで足利直冬や幕府軍一色氏・仁木氏を退けほぼ九州制圧をし南朝の全盛を支えるも、二代将軍義詮は九州探題として斯波氏・渋川氏、三代将軍義満は細川頼之・今川了俊を派遣し、征西府・直冬軍・幕府軍の三つ巴の覇権抗争となる、その後幕府軍が勢力を盛り返し征西府・直冬軍を抑え九州を従える。小説では北方謙三氏「武王の門」がある。
征西府は明国と密接な関係を作り対明貿易を一手に収め南朝の財源を担っていました、また明国太祖は懐良親王を「日本国王良懐」とし国王と認め、幕府は明の軍事介入を恐れていたこともあり征西府討伐を画策していました。懐良親王は将軍義満により制圧され征西将軍を退任、肥後八代で病没したとされています。
墓所は熊本八代に八代宮として祀られています。墓所は何ヶ所か在るとされていますが宮内庁は八代宮を墓所としています。
3390694墓所sin7.jpgsin8.jpg北方謙三氏著
吉川英治氏の「太平記」は最も親しまれた著書でが、この時代を書かせたら北方謙三氏が第一人者であろうと思います。
婆娑羅大名:佐々木道誉「道誉なり」、播磨の悪党:赤松円心「悪党の裔」、陸奥守:北畠顕家「破軍の星」倭寇松浦党「波王の秋」などがある、いずれもスポットを充て難い主人公であり、歴史の主役ではないのが面白い。
CS時代劇専門チャンネルで大河ドラマ「太平記」がスタートしました、NHKもオンデマンドなどでなくBS放送で
過去の人気の有った大河ドラマや人形劇を放映すればと思います(BSは誰も見ないつまらない番組が多すぎ)
人形劇「三国志」「里見八犬伝」など子供に見せたいですね。
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