SSブログ

「新田義貞」永峯清成氏を読み終わり [fuzzyな日記]

33303853330384分倍河原に在る「新田義貞」像
永峯清成氏の「新田義貞」を読み、改めて地元を認識させられました。実は私が育ち現在生活している東京・埼玉西部は、義貞が鎌倉攻めをする為に上った「鎌倉街道・上の道(かみつみち)」の周辺なのです。
私の店の前の道「鎌倉街道」は、鎌倉幕府の軍用道路で有事の際は武士団が「いざ、鎌倉」と馳せ参じる為の道です。北条氏討伐軍を率い義貞が甲冑に身を包み騎馬で通ったのかと思うと頭の中がタイムスリップします。入間川を渡り、小手指原での戦も後、八国山・久米川(志村けんさんで有名になった東村山市=私の出身地)・府中分倍河原の戦いを、稲村ガ崎(サザン桑田より古く名を高めたのですよ)鎌倉に攻め込み北条氏を滅亡させた「新田義貞」彼も時を経、「足利高氏(尊氏)」との戦いに敗れ越前藤島(福井市)で討ち取られ、都大路に首を晒される運命を辿るのです。3330386新田氏と足利氏は、清和源氏(河内源氏)の嫡流、源氏の棟梁の家系です(頼朝一族終焉後)。そして新田氏は本来嫡流で有るべきですが、頼朝挙兵の際積極的に動かず、分家の足利氏に主筋を奪われ新田庄(群馬県大田市周辺)の豪族に成り下がり、鎌倉末期を向かえます。後醍醐天皇の命を受け、鎌倉攻略の大将に任じられ重用されますが、幕府消滅後はライバル高氏との戦いに敗れてしまいます。周到な足利氏に対し愚直な新田氏、、武家の棟梁の肩書きを背負った足利氏は、後醍醐天皇に懐柔されず武家を重んじたのが最大の勝因でしたね。又、領地に執念を燃やす武士団は恩賞を得る為に命をかけ戦います、土地権力を持たぬ新田氏には恩賞を期待できないのですから足利氏に従うのは当然ですね。義貞は凡庸な武将とされています、鎌倉を崩落させた事実もあり、武将としては実力・人望も有ると思いますが、政治能力に欠ける面が有ったのでしょう(後醍醐天皇に振り回されすぎた)、その差が高氏との差で勝者か否を分けたのでしょう、しかし歴史の主役になれなかった「新田義貞」悲運の武将です。
武士社会で朝廷に膝を折ると、ろくな事がないのは武家の歴史です、源氏はいつも朝廷に蹂躙され続けていますね。
永峯清成氏作品著書には、「楠木一族」「北畠親房」「上杉謙信」などが有ります。
「新田義貞」は浅田次郎氏も書き上げています。吉川英次氏の「太平記」にも登場しますが脇役にすぎません、NHK大河ドラマ(1991)「太平記」では根津甚八が演じています。(尊氏=真田博之)

nice!(36)  コメント(13)  トラックバック(0) 
共通テーマ:グルメ・料理

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。