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仏敵:織田信長 [fuzzyな日記]

3490513織田信長3490550
休暇中に読んでいた本で織田信長と僧門の対立が数多く書かれていた、そう謂えば確かに有名な「比叡山焼き討ち」など僧門の虐殺が頭に浮かぶ、仏敵とされた信長の所業は残忍と謂えば残忍、新しき世界を討ちたてるために起こした所業と謂えば、そうでもあるし、政教分離の一環でもある。*私的には信長と魏の曹操と重なるのですが。
3490514延暦寺根本中堂3490515恵林寺三門

「比叡山延暦寺焼き討ち」朝倉・浅井連合軍と連動し織田包囲網の一翼を担う行動に出た延暦寺、連動せず中立を保てばこの事件は起きなかったのだが織田と延暦寺は寺領を巡る軋轢もあり勧告を包囲網を過信し無視する行動に、激怒した信長は元亀2年(1571)根本中堂を始め山王十一社などを焼き討ち、高僧や僧兵・婦女子など千五百人とも四千人とも謂われる人を殺戮した。
「甲州恵林寺三門焼き討ち」甲州塩山にある恵林寺は甲斐武田氏の菩提寺である、長篠の戦いで敗れ敗走した武田勝頼を追い恵林寺に殺到した織田信忠が武田氏に加担した六角氏の引き渡しを要求するも恵林寺の高僧快川招喜を三門にて焼き殺す事件。快川招喜がこの際「心頭滅却すれば火も自ら涼し」と詠み残している。
「長島一向衆焼き討ち」敵対する本願寺の助成を受けた、長島願証寺は一向衆一揆を先導し、伊勢侵攻の信長に対し激しい抵抗戦を行う、兵糧攻めに屈した門徒を銃撃した織田軍は再度抵抗した門徒(僧から婦女子まで)二万人を焼き殺す。
「高野山高野聖虐殺」織田家に仕えていたが毛利に寝返った荒木村重の家臣を匿った罪で千余人の高野聖を処刑する。なお、荒木村重の有岡城女房衆百二十二人ほか、村重一族など三十六人も処刑されている。(村重は敵対する本願寺に食料を補給したとか、家臣が売ったとも)
所業だけ見れば、仏敵と称されても仕方ないほどの殺戮を行っている。当時の行為としては常套であり、非難も一部の敗者側しか無いのも事実とのこと、そんなものなのかな?
大田牛一(信長の有筆)が書いた「信長公記」や山科言継卿の日記「言継卿記」などの文献に残され、イエズス会の伝承も多く残されている(イエズス会の話は信憑性には欠ける)
自らを「第六天魔王」=支配者と称した信長も本能寺にて明智光秀に討たれたのは皮肉なことである。*光秀の謀反の動機に一つとして、僧門の焼き討ちなどがあるとも言われている。
また、高野山には聖を殺戮した信長の墓所(供養塔)が在るのも不可思議ではある。*経緯もあるが、寛大な受け入れなのか、単に聖域の高野山として無碍に出来なかったのかは分からない。
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高野山奥の院信長公墓所と本能寺信長公墓所
高野山はまだ訪ねたことが無いのです、戦国の武将達の墓所が勢揃い、此処に墓所を築くのは所謂ステータスなのであるとのこと、それは現在でも同様らしい。
武田氏、上杉氏、豊臣氏、徳川氏、伊達氏、島津氏を始め錚々たる顔ぶれのほか、石田三成や明智光秀までも在る、いずれ行ってみたいのです。
@沖縄旅行中、沢山の訪問等ありがとうございました。
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袋田の住職

安禅は必ずしも山水を用いず (安禅不必須山水)
に続く句ですね。
禅の境地を表したものですが、
なかなか心頭滅却はできないもので・・・
私の場合、心頭滅却したつもりでも火は熱い。。。です。

by 袋田の住職 (2010-01-23 22:08) 

moz

ぼくも曹操とダブります。もっとも曹操も初めの頃は青洲兵なんかを参加にくわえたりしていましたけれど。
信長が生きていたらどうなっていたんでしょうね。
世界史が変わっていたのかな? これもifで、面白いですよね。
by moz (2010-01-24 10:38) 

fuzzy

袋田の住職さん、確かに火は熱くないわけないです、夏場の暑い日にすら音を上げてしまいます。恵林寺は臨済宗ですから禅宗ですね、禅の境地私とはかけ離れていますね。
by fuzzy (2010-01-24 16:06) 

fuzzy

mozさん、もしかしたら信長は曹操を手本にしていたかも知れませんね。
天帝・天皇の上を目指していたのですから、冷酷なイメージが強い信長ですが、元々は寛容な面を大いに持ち、服従しない勢力に対しては徹底的に潰しに動いてようです、小大名の信長を侮った結果の仕打ちが残忍な結果を生んでしまったのでしょう、多かれ少なかれ勝者は敗者を根絶やしにするのは、後に強烈なしっぺ返しを受けないためです(源氏と平家が良い例)。
信長が生きていればか?アジアの覇者になっていたか、欧州の属国になっていたか、違う歴史違う日本になっていたかも知れませんね。
by fuzzy (2010-01-24 16:31) 

comomon

そうそう、信長は曹操と印象が似てますよね☆
古い価値観にとらわれず、新しい価値、文化を奨励して歴史を引っ張ってきたところなんてそうですよね。
そんな生き方がかっこいいなと思うコモ太郎一味です。
by comomon (2010-01-24 22:15) 

fuzzy

comomonさん、似ていると感じてくれましたか、既存の概念・権力を討ち破りを武により新しき世を築こうとした、曹操と信長、同じ匂いがします。
しかし、曹操に比べ信長は性格に問題アリですね、伝わる話が正しいのならば関わりたくないですね。
by fuzzy (2010-01-25 13:01) 

やまがたん

信長は今はこうして色々といわれておりますが
彼は、この時代に現れた変革者なんですよね
彼が道を開いたことも数多くありますから^^
by やまがたん (2010-01-26 07:29) 

fuzzy

やまがたんさん、信長の悪行と謂われている行為は後の世で悪い印象として残っていますが、逆らえば倒す当時は当たり前に近いのです、ただ宗教への価値観が他の武将などとは異なっていたのは事実ですね。彼は経済・軍事に改革を起こし国の活性化・強化を図る目的で天下統一を目指し志半ばで潰えましたが、正に英雄です。
by fuzzy (2010-01-26 13:48) 

toshi

信長は中世の古い権威の象徴としての仏教に敵対したのではないか、と思っています。宗教的権威が政治にかかわることなく、政府に服するようにならなければ近世は生まれなかったのではないか、と思います。江戸時代になると神社仏閣は寺社奉行の管轄に置かれ、支配されるようになります。
by toshi (2010-01-26 14:16) 

fuzzy

信長は仏教自体を否定していたとは思いません、政治に関与したり富を肥やしたりの俗物と化したりすることが許せなかったのでしょう。焼き討ちした寺は飽くまでも信長の望む世に妨げになる存在だったのでしょう。政教は分離されなければいけないと私も思います。
by fuzzy (2010-01-26 18:53) 

sak

信長って
武将の中で1番好きかも...
高野山、何度か行ってるけど
独特の雰囲気があって
すごく心落ち着く場所だなぁ...って
by sak (2010-01-26 21:52) 

hamagen

信長のお墓が高野山にあるのは意外でした。でも、そこが日本の宗教観というか良い所でもある気がします。ぼくも一度、高野山へ行ってみたいと思っています。
by hamagen (2010-01-27 08:37) 

fuzzy

sakさん、人気はやはりNO1でしょう、他の武将とは一線を画し、彼に変わる存在はいません。高野山奥の院は妻も行きたがっているのです。
by fuzzy (2010-01-27 12:19) 

fuzzy

hamagenさん、高野山は特別な存在のようです、延暦寺を開いた最澄も空海に教えを請うたくらいですから。戦国武将の墓がオールスターキャストで並んでいるのですから凄い処ですね。
by fuzzy (2010-01-27 12:23) 

アテンザ23Z

信長は古い価値観を持った旧勢力を、
自らの武力で一掃しようとしたんでしょう。
旧勢力を一顧だにしない姿勢は、
南北朝期のバサラ大名などと相通じるものがあるように思います。
by アテンザ23Z (2010-01-28 00:35) 

fuzzy

アテンザ23Zさん、バサラと通じますね松永久秀・伊達政宗なども同様だと思います。信長の革新的な発想に旧勢力の既得権や権威が邪魔のだっでしょう、その後堺商人も随分と無理な要求を受け入れた背景には、魔王・信長の所業が効果を発揮しました。
by fuzzy (2010-01-28 14:16) 

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